この道は、25年前に歩いた道
7月のある日、高校の後輩から、一報が入った。
SMSで。
「安松先生から、召集令が出ました。近く詳細連絡します」
母校、東山高校では、
猛烈に勉強、、、もせずに、遅刻⇒まず2時限ほど寝る⇒早弁⇒昼休みサッカー
そんな学生時代だったのですが、一応は進学コースだったために
運動系の部活動を禁止されていたのです。
で、ヒョンなことから2年生の時に「地学部」に勧誘(誘拐)されて
その時の恩師が、先述した安松先生だったのです。
まぁこの人が、オモロイ人で(色んな意味で、味のある良い先生でした)
まさかの召集令、さらにはその地学全OBが招集された、と
これは一大事で、久しぶりの同級生や後輩らにアポ取って
そして、ほんにゃらはんにゃら、日曜日に母校の生物教室で集まることになったわけです。
私が学生の自分は、当時住んでいた小栗栖から、京阪バスで山科駅まで出かけて
そこから京津線(当時は未だ路面電車!)で、蹴上駅まで
そこからオッチラ歩いて登校だったのですが
時代も経て、初めて地下鉄を利用して「登校」することになったのです。
ご承知の通り、日曜日は、それまでの湿気が何処へ消えてしまったのか
カラッとした秋の気配を思わせる、心地よい気候。
早速ラジオから、オフコースの『秋の気配』が流れる始末。
久しぶりの登校路に、ワクワク心を躍らせて向かいます。
まず蹴上駅を降りて、見えてくるのは
京都の街の近代化に貢献した、疎水インクライン(懐かしい言葉)の下をくぐる
通称「ねじりまんぽ」というレンガをねじって積み上げたトンネルです。
トンネルを抜けると、そこは、、、
閑かな超高級住宅街?というか、別邸とか寺院とかが並んでいます。
まだ若造だった時分には、まったく興味なく通り過ぎた道ですが
こんなに趣深い場所だったのか。。。
あれ、ここに東照宮!?
確か、阪神大震災のときに、ここの塀にヒビが入ってたんだよな。。。
(余談ですが、大震災の当日、とりあえず登校したのですが
授業は中止になり、帰宅したんです。公共交通機関、動いてましたね。。。)
山名宗全の墓が!?
さらに趣は増すばかり。
なんといっても、南禅寺。
何度も何度も、前を通ったんだよなぁ。
奥丹の前を通過して。
大人になったら、行くのかなぁ、なんて思ったまま、まだ未経験の料亭。
この門を潜り抜けると、もうすぐ母校。
※友人の良いカメラで撮影した校門
嗚呼、懐かしい!25年ぶりに、この道を歩いてきたよ。
卒業してから、何かしら、ちょこちょこ学校には出向いていましたが
さすがに15年以上は、来てなかったなぁ。
学校の中は、随分とキレイになっていて
あれ、正面玄関入って、左側にあった公衆電話で、大学の合格発表聞いたよなぁ、とか
職員室がガラス張りになってて、なんか先生窮屈だろうなぁ、とか
食堂のうどんが、当時より50円も高くなってる、とか
少し学校散策して、いよいよ生物教室へ。
なんとOBが50人弱も集まっていた。
そんなに大きい組織だったのか、と改めてビックリ。
そして、楽しく話す、恩師がそこに。
口調は変わらず、御年75歳も元気そのものでした。
このご時世にマスクを外して、話しが止まらない安松先生。
(全員、しっかりマスクで感染防止しています)
ああ、この話芸だったよなぁ
ここから脱線しだしたら、もう本線に戻らないんだよなぁ
懐かしもあり、嬉しくもあり、もう感動してしまいました。
地学部を通じて、鳴き砂で有名な琴引浜と関係を持ち
そのまま退職後も、現地に引っ越して
現在は、琴引浜ネイチャークラブの館長として、未だご活躍されています。
ちなみに研究のメインテーマは『漂着物』
私たちの時代は、毎月に京都駅からタンゴエクスプローラーに乗って
網野まで出かけて、そこの社務所をお借りして一泊して
早朝から漂着物、といえば聞こえは良いのですが
いわゆる「ゴミ拾い」をして、集めたものをデータ蓄積して、海洋汚染を発表していたのです。
我々の世代は、まだ始まったばかりの世代でしたが(勝手に第一次黄金世代と名乗ってましたが)
後輩たちが、全国各地で発表会で講演したり、と
その部活動は、いずれ全国区の知名度まで拡げてくれたのです。
私も当時、NHKのサイエンスアイに出演したり
後にNHKで特集が組まれた、伊丹十三が編集した医療廃棄物問題の番組にも
ちょっくら取材されたり、と縁深かったわけです。
恩師の言葉
「何事も、記録して、それをまとめて、残しておくと、必ず価値が生まれてくる」
は、彼が1つのことを愚直に取り組み続けた結果の賜物として、
とても心に響きました。
とにもかくにも、恩師、そして先輩・後輩たちに会えたことが、なによりの幸せ。
本当に幸せな1日で、夜も興奮して、なかなか寝付けなかったのでした。
お盆の過ごし方
お盆休みは、12日〜16日まで
ゆっくり過ごさせていただきました。
ていうかさぁ、8月の前半、特に暑かったじゃん。
だから車内でクーラーで涼んでいたようで、やはり熱がこもっていたんだろうね。
本当に、本当に、身体が疲れたよ。
だからさ、少しはゆっくりしようと思ってさ、美味しいもの
食べに出かけたんですよね。
亀岡へ。温泉入りに出かけたのよ。
ハモフライ。ビールにあう。
ハフハフ。
そして、鮎ごはん。
明日のことは、顧みず。
3膳も食べてしまい、お腹カンカン。
翌日は、舞鶴から小浜へ、のんびりドライブ。
海を眺めてた。
「海が見たいなんて 言い出したのは君の方さ」
大滝詠一を爆音で流しながら、ロング・バケーション。
街の食堂で、蕎麦とヒレカツのセットを。
これまた、B級グルメ美味なりよ。
そこから、さらに足を伸ばして、
岐阜に出かけて
相変わらず、大好きな、凝りもせず、焼肉ささ木さんへ。
あのカウンター席が、本当に落ち着くのよね。
赤身の肉と、こだわりのグラスワインで、ああ夏休み。
翌日、店主に教えていただいたお店で土産を購入。
このわらび餅、超柔らかくて、ペロッつ食べちゃいました。
お取り寄せも出来るみたいなので、また会社の皆さんに届けるからね〜
今年の夏は、1日ずーっと腫れっぱなし、というのは無かった気がするのね。
どこかで、雨がスコール、ザーーと降り続いて。
まだまだ残暑も厳しそうだけれども、まずは無事にこの8月を終えたい。
あと、また旅に出たい。
御盆まで、あと少々
業界の怠惰?
色々とお客様とお話していると
自分の業界について、改めて考えさせられることが多々ある。
我々の業界は、未だに報告書は紙媒体であり
近年、捺印不可+届出を郵送で可能にする、などの法改正は
この業界にとっては画期的なことである、と
先日の再講習で、講師の方がおっしゃってた言葉。
とあるIT企業の仕事をさせていただいたときには
その会社には、コピー機なるものは、もう不要。
全てデータのやりとりで処理をされる、ということは
とてもとても驚きであった。
他の同世代の人々にとっては、当たり前のこと、なんだろうか。
未だに、我々は消防用設備等の点検作業として
現場に伺い、そこにある設備について点検作業を行うわけです。
受信機にLANケーブルなんて、繋がっていませんからね。
TVにも、冷蔵庫にも、ネット環境が繋がっているのに
警備会社への連絡だって、未だに接点を利用して
そこから電話回線で、、、だもんね。
他の業界だったら、ネットでの会議などが当たり前。
我々は、あくまで設備と、お客様と、直に触れ合うことが大前提、なのです。
だから
もう私は、開き直って、我々は昔ながらの御用聞きに徹しようと思う。
サザエさんでいうところの、三河屋さんのように。
サブちゃんだっけ。
解りやすく、言い換えるならば
「お客様に、会いに行く」
令和の時代に、正しいのか否かは判断つきませんが
お客さんとの直接的な繋がりのなかで、設備を大切に扱わせていただき
また何気ない会話の中で、能動的に我々の心地よさを届けたい、と思うのである。
もう少しだけ、愚痴?ではないけれども、一言。
例えば、自動火災報知設備の感知器ってのがあって
それは、日本の検定制度を受けたものでなければ
販売・使用することは不可なのです。
で、とある感知器の検定番号が「感第2~〇〇号」と記されているものがあって
それは平成2年に検定合格したものである、という意味なのです。
いやいや、よくよく考えてみると
もう30年以上前に製造されたものが、未だに主力として使用されている、ということ。
PCだったら、30年以上前、いや5年前でも、もう化石のような扱いなのに
それが当たり前のように使用されている、我々の業界について
なんとも、考えること多いわけです。
例えば、スマホだったり、家電だったり、1年に2回くらいは新製品出てるよね。
そこまで頻繁に、とは言わないが
我々の業界に関係する、〇〇工業会だったり、もう少し開発なりの
進歩を目指しても良いかと思うんだけれどもねぇ。
その割には、一部上場企業で、野球場の大きな看板を掲げていたり。。。
それが業界の掟であり、風土であり
また我々も、その流れに居心地を求めているところ、多々あるんだろうなぁ。
先日、角川春樹がTVに出ていて、色々と不思議な発言などされていただけれども
彼が若いころに友人たちと誓った言葉
『退屈な大人にはならないようになろう』
この言葉は、とても響いた。
ワタクシモ ソノヨウナ ニンゲンデ アリタイモノデス
そんな矛盾をボンヤリと考えていると
気が付けば、灼熱の夏を迎えたってワケ。
あっつい。