傷跡
京都では、台風21号によって甚大な被害を被りました。
というよりも、京都の人って、台風について
それほど警戒心が強くないのです。
「まぁ、今回の台風も結局、夜に過ぎ去っていったなー」
「あんまり、雨降らなかったで」
台風一過で、こういう挨拶も通常だったのですが
今回は、完全にやられました。
それもお昼12時ぐらいまでは、嵐の前の静けさだったのに
数時間(16時過ぎまで)で、外の景色がガラッと変化してしまったのです。
停電はする、バキバキ樹木が倒れる、倉庫が飛ぶ。
雨と風の音。恐怖でした。
ご近所の長尾天満宮、醍醐寺、吉利倶八幡宮
とにかく、木が倒れた。折れた。あんなに大きな木が、ボキッと。
翌日の大阪の国道では、突風で信号機が、斜め向いていました。
通電はしているので、信号は点灯しているのですが
それが、さらに通行車両を困惑させる。
夕方の空を見上げると、すっかり秋の気配。
なのに、ね。
最近、読んでいる『防災学原論』には、このように記されています。
雨が降るから洪水になるのではない。
洪水が起きるから人が死ぬのではない。
同様に、地震が起きるから家が倒れて下敷きになった人が死ぬのではない。
雨が降ると地表を流れる水流がただちに地面を刻んで傷を作り
その傷がどんどん大きくなり、戦争中に掘り残した木の根をえぐりだす。
皮は泥水と流木と岩石が逆巻く流れになる。
流木と岩石は傾斜が緩くなる所で止まって川底を高くする。
底が高くなった川から泥水と流木と岩石が溢れて人家を襲う。
(中略)
雨が降るという自然現象の後に起きる災害は、明らかにそのほとんどが
『人災』なのである。そして人災は、人間が考え方と振る舞いを改めることで
防いだり損害を軽くことができるのだ。
もちろん、目の前で惨事・有事があって、そんな理屈、言ってられっか!
との意見は、沢山あると思います。
しかし私は根本的な部分を修正しないと、これからの自然災害に
我々の生活する社会が太刀打ち出来ないだろう、と考えます。
人間が考え方と振る舞いを改めることで、何ができるのか。
それは、脆弱性を減らす努力、なんだそう。
社会と、どう関わり、どう生きようとするのか。
色んな根幹の部分が、問われ続けている、と思います。
池波正太郎は、いつも言います。
生き物は、死ぬ為に食べ、死ぬ為に寝る、という矛盾と共に生きるのだ、と。
世の中にとって、正しいことを判断し、良いことをする。
災害を目の当たりにして、改めて思うのです。