要するに。
昨夜のヨルタモリで「要するに、とよく言う人は、話が長いだけで,要約できていない」というネタがありましたけれども(そのネタが『クローズアップしすぎ現代』とのパロディであることが、とても面白かった)要するに、という言葉は使わなくとも、だらだら話してしまうことがあるのです。
酒に溺れ ふと我が言葉は だだ漏れに
もう酔いが進んでしまうと、ただただ冷静さも冷徹さも(コレは元々ありませんが)失い、心に浮かぶ由なし事を、ただひたすらに言葉にしてしまう、ということは多々あります。ただし,この場合、この相手なら言葉を漏らしても良い、という安心感の上で成り立つ話であって、これがわがままな言葉の乱発であるならば、それは相手に対して傍迷惑でしかないのですが、そこに信頼の上で,相手が受け止めてくれる事を前提として信頼が存在するのであれば、ここに限りない安心感が生まれるのでは、と私は考えるわけであります。
はい、このブログも読んでいただく数少ない慈愛に満ちあふれた方々に対する、身勝手な安心感の元で成り立つ文章なのであります。笑
でも、人間の感情たるや、上手に要約できないし、もっとグレイなイメージがあり、曖昧であって然り、だと考えるのは、最近、宮本輝の小説を読んでいるからやもしれません。今,読んでいるのは『錦繍』です。とにかく、人間の曖昧さだったり、悩みだったり、死への考えについて、赤裸々に、しかしどこか温かい、比喩するならば和蠟燭、のような温度を感じたりもするんです。
こういう事を考えることが出来るようになったのは、要するに(あっ)心の余裕がようやく出来始めたんだということです。ようやく年度末も終わりが少し見えてきて、何かしら自分の中に少し落ち着きが芽生えたのかもしれません。それがすっかり春らしい陽気のせいなのか、桃や桜の花びらが思わせるのか、まったく酔った思考からは想像だにせぬことなのですが、とにもかくにも花粉症にもいい加減に慣れ親しみ、いよいよ4月を迎えることに対する安堵感が、根底にあるのやもしれません。
とにかく私 4月になれば 旅に出る
日帰りでも良いのです。何処か『遠くへ生きたい』
♪知らない〜街を〜歩いてみたい〜(この歌詞、永六輔だったのかぁ。。。)
4月になれば、温泉にでも浸かって、この超多忙であり、日々色んな事に苛まれた身体を,少しでも癒してやりたいのであります。
いずれにせよ、まもなく、春。
はっぴいえんどの『明日あたりは、きっと春』(作曲:鈴木茂)を聞き流しながら、今宵を楽しもうではありませぬか。