呪いについて
「うわぁ、怖っ」
夕方の社内で、タカノが空を見上げていたの呟いたので、ふと一緒に窓の外を覗いてみると、なんともいえぬ不気味なハッキリしたオレンジ色の夕空がそこにありました。キレイ、と表現するものとは全く別で、何が理由だかわからないけど薄気味悪さがそこにはありました。
よくよく考えてみたら、何かと桜の季節だの紅葉だのいわゆる表面的なキレイな風景を求めがちなのですが、なんせ相手は自然なんですから、そりゃ一方で奇妙だったり気味悪いもんだって沢山あるはずですよね。前にウチの娘を植物園に連れて行ったときに、温室内の熱帯植物コーナーを通るときに、あまりに大きなシダやうねうねした茎の植物を見て、さらに中途半端な温い湿気も手伝って、彼女が号泣したのを思い出しました。そんな色んなものが混在した世界に生きていること、が本来は普通であることが、少し忘れてしまっている感覚なのかもしれません。何事もバランスなんでしょうね、きっと。「ちょうどいい」という言葉は本当に大事なのかもしれません。どうも色んなことが偏ってしまっている感じがして仕方がありません。
さて最近読んでいる本が、とてつもなく面白くてたまりません。タイトルもズバリ「現代人の祈り〜呪いと祈り〜」です。それだけで、なんだか怪しい匂いがプンプンするのですが、中身がまぁ濃いわ濃いわ面白いわ。お寺の和尚さんと大学の先生と精神科医さんの対談形式で進んでいくのですが、途中でシャーマンの話になったり、ユーミンの「中央フリーウェイ」の話が出たりと脱線しながらも、宗教を視点として人間性を問う、というちょっとヤバい感じの内容です(笑)それでもとにかく内容がいい。特に面白かった文章が「呪いで一番怖いのは、自分は呪われているはずがない、と思い込むこと自体が呪われている」という部分です。例えばネット上で氾濫している言葉の数々が、それらを書き込む人々の匿名性や仮面性のために、何故か大きな力(例えば社会的一般論や批判論)を纏ってしまい、また受け手も過大にそれらを評価・消化(中には消化しきれずにストレスになる人もいるでしょうが)をしてしまうことについて触れています。人を殺します、なんて予告や、それを見て自殺してしまう、そんな最近について、これらは呪いに侵されている「呪詛の社会」が現代人の問題の1つだ、なんて展開をしています。(かなりヤバいでしょ笑)さらに「呪い自体、それを意識していない人間には、何の意味も持たない」というのが面白い。韓国の有名な昔話で「3年峠」というのがあるそうです。ある村と村の間に峠があって、そこでつまづいてしまうと寿命があと3年になる、というもの。手前の村の医者が、向こうの村で病人が出てしまい、通常あまり通らない峠をどうしても越えなければならない状況になりました。そこで案の定(笑)向かった途中でつまづいてしまい、村人全員が悲しみにくれてしまいました。そこに一人の賢者が現れて「それでは、峠に行ってそこでもう一度つまづけば寿命がさらに3年長くなるだろう」と提案し、結局村人が医者を峠で転がして、その呪いを解いた、というお話でした。色んな情報が錯綜している中で、どうしても染まってしまっている私たちがいるのですが、それを客観視してみたりすることさえすれば、冷静に対応することが出来るはず、だけど近頃はなかなか難しい・・・という内容でした。ここから解決策として「予祝」がある、という展開になるのですが、続きは読んでのお楽しみです♪
そんな話をだらだら呑みながら後輩と話をしていると「コンドウさん、そしたら昔にムーディーが言ってた『右から左へ受け流す〜』って大事なことなんですねー」って彼がボソッと呟きました。あっ、ほんまやぁ。だから流行ったんだな。そういえば最近全然見ないなぁ、、、(そんな使い捨てのテレビ業界らマスメディアに対して警鐘を鳴らしている内田樹さんの『街場のメディア論』もおすすめです)
さてさてこんなブログなのですが、社員それぞれの文章内容を読んでいただいて、皆様は私たちにどのようなイメージを持っていただいているのでしょうか?コンドウは文章にまとまりもなく、きっと実際も変な奴に違いない、なんて思われているのかも・・・至って真面目でほんわかした好青年なんですよ。うふ。
右から左へ受け流していただいて結構です(笑)